ヴィトゲンシュタイン 明確化の哲学 (本)
https://cover.openbd.jp/9784791772872.jpg
ここでの論証とは理由の吟味と捉える
ヴィトゲンシュタイン的論証とは明確化である
名前は現実に存在する対象を表す
述語はもののあり方を示す
これらによって構成される文が全体として,現実のあり方(事態)を表す
そしてこの事態が現実世界で実際そうであったら真,そうでないなら偽である
語りうるものとは事態である
事態を超越したなにか,形而上学的な物事については語ることは出来ない 語ることはナンセンスである
という主張
1章
後期ヴィトゲンシュタイン
言語使用
文の言語的意味,含み,言われていること(what is said)
含み. その文が暗に何を伝えようとしたか
言われていること. その文が何を意図しようとしたか,その文が表す命題
言われていることに着目
像と考え
像. 言語とはかくあるべしといった大雑把な捉え方
これ多分「イメージ」と同じような意味で捉えていいのでは
考え. 言語について考察することで与えられる様々な理論,考え
アウグスティヌス曰く,物を指差しで名前を読んだり,その表情や身体的振る舞いから察することで物の名前を覚えていったとされる これが,人間の言語の本質についての特定の像
この像をこう要約した
言語における語は対象を名指す.文とはそのような名前の結合である
この像が次の考えの元であると考えた
すべての語は意味を持つ.意味は後に割り当てられている.意味とは語が表す対象である.
ここで言う「名前」って何?
「名前」の解釈が開かれすぎている
(誤った)解釈をしてしまった状況をモデルとする
誤ったモデルを哲学の理論が従うべき絶対の枠組みとしてしまうことで,メチャクチャな理論を展開してしまう!
像に典型的な(誤っている)モデルを結びつけて何かを理解した気になってしまうと診断した
これを治療するには,実際に言語が使用されている現場に目を向け,言われていることをきちんと明確化せよ
対話こそが最も最善の方法である
2章
像とモデルの固執が諸悪の根源である
ではどうすればよいのか?
大工の言語ゲーム
しかしこれはあまりにも限定的にしか使えないプリミティブなものである
我々の日常言語として想定し難い
アウグスティヌス的言語像における名前に対してのモデルでは「人間の言語の本質についての像」は全く掴めない 語の意味とは言語におけるその使用
意味 = 使用という像を提案
買い物の言語ゲーム
哲学探究においては様々なものが言語ゲームであるとされる 子供の言語習得プロセス
プリミティブな言語(大工の言語ゲーム)
言語活動全体
ヴィトゲンシュタインの哲学的方法
様々な哲学的像を言語ゲームによって明確化し,自身のコミットメントに値するかどうかを吟味する
理論と像
理論. いくつかの何らかの基礎的主張によって問題の実践の特徴をすべて説明する体系
像. すべてを説明できないが,重要な特徴を把握することには役立つ
言語 = 使用像にも限界__使用と意味は常に連動していることもない__が存在する
言語実践は多様すぎてすべての実践の多様性を説明できる理論を提唱することは困難と考える
なので,像によって様々な特徴を際立たせて把握せよ
要するに,「言語実践はこう説明できる」という理論を立てるより「言語実践はこのように(も)捉えられる」という様々な像を立てて把握すべきという話なのだろうか…
3章
規則の問題
ただし著者は言語を正しく使うとはどういうことかに着目せよと述べる
決定の例 / 決定に関する2つのモデル
動き方のシンボルとしての機械
1. シンボルとしての決定
機械が動く仕組みが機械の中に存在する
動きは仕組みによって決定されている
実際問題機械が正常に動くかどうかは関係ない,それは現実の問題である
2.物としての決定
実際,現実として壊れていることもある
その可能性を無視することは出来ない
シンボルとしての決定と物としての決定をゴチャゴチャにしている!
しかも,そ混同は哲学をしているときに発生する